10:10

財布を昨夜行ったお好み焼き屋に忘れてきたかもしれん。。気づいたのは今朝。満腹になってビールまで飲んで帰ってからテレビをつけたら、高校生のお小遣い事情みたいな番組の1コーナーがやっていて、それを見ながら最近の高校生は金持ってんなーとか、いい財布持ってんなーと思っていたわけだけど、そのとき自分の財布がもう手元にはないなどと全く露ほど思ってなくて気づいてすらいなかった。アホだ。とりあえず店が開く時間帯に妻に電話で落し物がないか訊いてみてもらうことになってるけど…。あればいいが、なかった場合どうしよう。

2014-01 まとめ


1
無人精米所の扉のところに雀が一羽いて、ちょこちょこ歩いていたからカワイイなあおい!と思って見ていた。どうもその辺に落ちている米の粒を啄んでいるようだった。


2
昨夜録画しといたNHKのドキュメンタリーを見ていた。毎回場所を限定して、そこを訪れた、普通の人々にスポットを当て、話を聞いて行く、と言った感じの番組。人に焦点を当てるのではなく場所に着目しているのが面白い。ファミレスの回を見てたらそのファミレスがジョイフルだったのでちょっとびっくりだった。マジでいろんな人たちがそれぞれの困難を抱えて、その困難とその人なりのやり方で対峙している、それでもやはり、死ぬまで人生は続くのだなあ、などという、相当言わずもがなな、凡庸極まりない感想を持つ。でも本当にこういうものを見ていると泣きそうになってくるのだった。


3
記憶イコール生なんて嘘だろう。悉く、人生の大半は記憶にも残らないようなことばかりではないのか。思考、というか意識もそうだろう。意識にも上らない領域で脳は独自にいろんな処理や計算をしているわけだが、それらを逐一意識はチェックなんて出来ないのだから、当然その膨大な思考は拡散して消えてしまうしかない、ということになる。


4
帰宅後、夜、風呂上がりに何気無く高橋源一郎の「さよなら、ニッポン」を読み始めてしまう。
作為的なものとそうでないもの、いや、作為的でないように作為するということ。
全ての、あらゆる小説、だけじゃなく、映画でも漫画でも、様々な作品は、何らかの面白さを目指して作られているわけだけど、その、狙ってる感、どうだ面白いだろうと言わんばかりの、これ見よがしなあざとい感じ、というのがもう嫌だ、というのはよくわかる。しかしなにがしかの面白さを狙わなくてどうするという気もする。そこを否定して、アウトサイダーアートのような、本当の天然の、純粋無垢というのか、計算なんてまるでない、ありのままでありながらもどこかこわれたような、そういったものを愛好するというのは、それはそれでどうなのか。そうなってしまうと、究極は、結局狂っているものだということになりはしないか。まあ、小説を開いて、いきなり、いかにも小説だなあと感じられてしまう書き出しというのは、確かにちょっと僕もウンザリというか、気合い入り過ぎだろう、という感じはするので、自分が何かを書くとしたら、やはりそこは避けたい、もっとラフに、肩肘張らずに書けたら良いが、と思うものの、難しいだろうなあ…。


5
金曜日の教室で、普段は全然交流もないようなクラスメートの女子と、僕と彼女が担当の委員会についての事務的な要件で、どうしてもその子に伝えておかないといけないことができたので、しかたなく「……◯◯さん、あの、ちょっといいかな?」と、彼女が友人と会話をしているところへ、一人でいる人に話しかけることでさえも相当な緊張感なのに、その上さらに二人でいる人間の、和気藹々とした楽しげな空気をぶった切るように割って入っていくなんてこれはもう苦行以外の何物でもない…と思いながら、それでも手振りは手刀を切るポーズを反射的にやってしまっていて、手刀を切りつつ僕は彼女たちに近づいていって、あたかもそこに、彼女たちの周囲に、何か見えない膜のようなものがあり、それを自分は切り裂きたい、そうすればその空間に入り込めるのだ、とでも言うように、そう無意識に考えての手刀だったのか、はたして、僕に突然声をかけられた彼女のリアクションは、案の定、はあ?なんなのよ。私たちのふわふわTIMEを邪魔しやがって。ていうかあんた誰?という感じだった。そういう目をしていた。「……いや、昨日の委員の集まりで、来週からの朝の声掛け運動、僕たちのクラスが当番になったもんだから、それでまあその、来週はいつもより早めに登校をしてですね、僕たち二人で校門前で皆に挨拶を……」「え、なにそれー!ムリムリ!」と、話の途中で彼女は叫ぶように声をかぶせてきた。自分の座っている机に頬っぺたを押しつけながら、傍に立っている友人女子の方を向いて、「校門前で挨拶とか恥ずかしすぎるよ~。椎井さん代わりにやってよ!」と言った。そう言われた友人女子の椎井さんは、「何髪の毛食べてんの!」と笑いながら僕を指差した。え、と思って僕は自分の口に手を持っていき、口の端をつまむ動作をしたのだけれど、場所が違ったようで、指先は何も掴まなかった。すると、「そのままそのまま」と言いながら、椎井さんは僕の口についていたらしい一本の髪の毛を、ひょいと取りのぞいてくれた。そのとき、一瞬だけ、彼女の指先が僕の唇に触れてしまったが、椎井さんはそんなことは特に気にする様子もなく、親指と人差し指でつまみとった髪の毛をその辺の空間に、指を鳴らすような仕草で投げ捨てた。


6
お姉ちゃんっぽい方が妹で、妹っぽい方がお姉ちゃん。


7
歯医者にて。


「今からはをみがていきますので、口を『い~』ってしてください」

「い~」

「……いやいや、どうして、
『い~』って言いながら口がたこみたいになってるんですか! それじゃ『ちゅ~』ですよ!」

「ちゅ~」

「何ひらきなおってるんですか!」

「いけませんか?」

「……いや、いけなくはないですけども ……それでは歯がみがけません!
ちゃんと、歯をみがいてからです!」


8
「ねえ、先生。こっち見て?
あの頃は全然なかったわたしのおっぱい。時間が経って、こんなにゆたかになりました。」と元教え子に迫られる夢。


9
夜、コタツに入って日記帳に日記を書いていた妻が、いきなり、「こわい!」と言うので、びっくりしてどうしたのかと問うと、「夕飯クッキーって書いてた……」と言うのでますます意味がわからない。

「全く意味がわからない。こわいって何が?」
「わたし、毎日なにを食べたか日記につけてるでしょ?」
「ああ、うん」
「でね、今日の夕飯って煮込みラーメン鍋だったじゃない?」
「そうだけど…」
「なにの、夕飯、クッキーって書いてた!」
「なんで」
「ちなみに昼は友永パン(別府市にある有名な老舗パン屋さん)。もちろんそんなもの食べてない」
「えーっ!」
「こわくない?」
「こわい……」
「クッキーも友永パンも食べてないし、そんなことを書いた記憶すらないのに…」
「でも、まさにいま自分で日記を書いてなかった?」
「書いてた…」
「じゃあ一体誰が書いたのか……」
「それにしても夕飯クッキーはひどい!」
そう言って煮込みラーメン鍋に訂正していた。


10
RPGをやっていて、モンスターが出現した。フィールドをうろついているとエンカウントで出くわすあれだ。敵は3体。シロクマ2頭とアリ。対象が幅広い。まず、ほとんど黒い点にしか見えないグラフィックのアリに、装備していたグレネードランチャーで擲弾を惜しみなく撃ち込む。派手な土煙の後に、抉りとられた地面の土がそこら中に散乱しているのが見える。シロクマの毛も土埃にまみれ元の色を失っている。心なしか、少し迷惑そうな表情。で、肝心のアリを仕留めたかどうかだが、目の前の光景を見る限り、これでは正直何もわからない。


11
毎日基本的に通勤中は車の中で音楽を聴いているのだが、行きと帰りとで合わせればたいていのアルバムなら一枚聴き通せてしまう。でも朝は気分が滅入っているせいか、僕は昔から朝のニュースとかも見れないタチの人間なので、音楽も聴くモードになってくれない。というわけで結局帰りの片道しかろくに聴いていないのが現状。昨日はバッファロードーターのシャイキック。今日は行きにステレオラブのエンペラートマトケチャップ。帰りにザバンドのベストを流していた。ただそれだけ。感想とかはない。



22:50

一年で一番忙しい日だった。

休み時間にWikipediaみてたら、現在、工事現場などで使われている安全ヘルメット、あれを最初に発明したのはカフカだと書いてあった。……ええッ!? 今年一番驚いた。


1883年に生まれたのは
カフカ志賀直哉北大路魯山人北一輝、ココ・シャネルなど。

ワーグナーマルクスツルゲーネフといった人らはこの年に亡くなった。

日本の年号的には明治16年で、坪内逍遥が「小説真髄」を発表するまであと2年なので、まだめぼしい作品は全然出揃う以前の状態。


カフカが「変身」を書いていたのは1912年10月から11月にかけてだった。この年漱石朝日新聞に「彼岸過迄」を連載中。石川啄木は26歳で死去。明治天皇崩御で年号が大正になった。カフカと同い年の志賀直哉は父親ともめて家を飛び出した。トーマス・マンは「ヴェニスに死す」を発表。この頃「魔の山」の執筆に着手し始め、12年後にようやく完成する。セリーヌは18歳で志願兵としてフランスの軍隊に入隊したところ。「夜の果てへの旅」が書かれるのはまだまだ先。


「審判」は1914年から翌15年にかけて書いていたとされる。カフカ31歳。ハイデカー25歳。サルトルは10歳。時代は第一次大戦に向けて加速中。…その後もまあいろんなことがあって、いろんな人たちが死んでいった。そして1924年カフカ没。1924年は、へえーこんなに、というほど、後々すごく歴史に名を刻むことになる、そういう子供たちがムクムクと生まれてきていた、そういう年だった。

0:54

実家にずっと本を置きっぱなしで、その本で一部屋つぶれているのがさすがに申し訳ないというのもあり、やはり手元にあってすぐに読める状態に本がないのは不満だとあうのもありで、以前からいつかはそれらの本の整理をしたいと考えていたのだけど、今日ようやくそれができた。まず、いるものといらないものとにおおまかに分けて、いらないものは全て段ボールにつめてブックオフへ売りに行った。200冊近く売ったが三千円にもならなかった。。まあそのうちどれだけ値がついたものがあるのかわからないけど。で、残りの本は再び実家の本棚にしまい、比較的場所のとらない文庫本だけこちらのアパートの方に持ち帰ってきた。疲れた。

18:25

小説には、中でもすぐれた小説には、その小説固有の語り口というものがあるように思う。作者がその語り口さえ掴めれば、小説はある意味勝手に動き出す、とさえ言えるかもしれない。窮屈さはその運動を阻害する。肩肘張らず、ざっくばらんに、自由に、伸び伸びと書けばいいのだがそれが難しい。とはいえ、今いる場所から一歩たりとも動かずに、あれこれ理屈をこね回し、ただ逡巡していたのでは何も始まらないわけだからとりあえずは書いてみるしかないのだろう。

13:52

「審判」はいま「商人ブロック 弁護士解約」のところまできた。これだけじゃなくカフカの小説はたいていどれもそうだが、その出だし、しょっぱなからかなり唐突な、強引な設定で開始されるわけだけど、というか、殆んど全編を通じてそういった唐突さが横溢していて、一歩先に何が待ち受けているのかわからない手探り状態で歩いていて、だし抜けに上から何かが降って来たり、平坦な道だと思っていた場所に突如大きな穴が空いたり…といったようなことがざらに起きる。だから本当に油断がならないし、毎度そういう唐突さに出くわす度に、「ええっ!」と驚くことになる。まさに唐突さの宝庫と呼んで差し支えない出来事の連なりであり、そのどの場面もがいちいち鮮やか過ぎて唖然とする。

それから、人物のやたらと長い語りだ。理屈として、一見とても筋が通っているように思われるが、それでもやはり最後まで聞いていると、結局何を言っているのだこいつは? と非常に困惑させられることになる、でもそれははぐらかしたり煙に巻いているのとは違う、きっと直截にありのままを述べているには違いないのだろうけれど、それが却って話をこんがらがらせているというか、訳をわからなくさせているかのような、今言ったことが次の瞬間、次に出てきた言葉によって即座に裏切られ、否定される、あの、かなり狂った論理展開にはやられる。癖になりそうなおかしさがある。

そして、やけにイキイキとした人物の動作、アクションの描き方は殆んど信じがたいほとである。いま適当に開いた頁から引用するが、例えばこんな場面。

挨拶がすむとすぐ彼はーー肘掛椅子に座るようにKはすすめたのだが叔父にはそのひまもなかったーー二人きりで少し話したい、と言いだした。
「どうでもそうする必要があるんだ」、と彼はごくんと唾を呑みこんで言った、「わしを安心させるためにもぜひそうしてくれ。」
Kはただちに小使を部屋からだし、だれも入れるなと指図した。
「わしが何を聞いたと思う、ヨーゼフ?」
二人きりになるやいなや叔父は大声でそう言って机の上に腰をおろし、少しでも座り心地よくしようと見境なくさまざまな書類を尻の下につめこんだ。Kは黙っていた。

あと、このKはなかなかの好色野郎というか、手が早くて、出くわす女ほぼ全員といい感じの雰囲気になるのだが、なかでもとりわけ凄いのが、彼は上記の叔父と彼の知り合いの弁護士の家へ、K自身の訴訟の件を相談するために出かけて行く。しかしKは相談そっちのけで、病身の弁護士の看護をしているらしいレーニとかいう女中?と、よりによって弁護士の書斎で、そのレーニとはその時が初対面であるにも関わらず、イチャイチャし始める。しかもそのまま何時間も叔父と弁護士をほったらかしにして、その挙句、叔父にブチ切れられるという…女に関することとなるとマジでどうしようもない奴で、このくだりは読んでいて大笑いした。

23:39

昨日買ったトルネで早速録画した番組を確認。おお、ちゃんととれているではないか。しかもふつうに画質も良い。で、森崎東のドキュメンタリーを見たのであるが、内容は認知症を題材にした映画を撮っている監督その人が認知症になりつつあるというもので、見ながら、つまり映画とは記憶のようなものではないか、と思った。記憶は情報であり、その情報をばらばらに解体し再構成したものが映画であり、もっと言えばそれが「生」というものなのかもしれない。……いや、こういう何かわかった風な感じの書き方はつまらない。実際僕は映画についても他のことも一切何もわかっていやしないのだし。

番組の中で引用されていた森崎東の言葉、人の生はその人自身の記憶とその人の記憶を持つ他者の記憶との総和である、というようなこと。しかし認知症などによって殆ど全ての記憶を失ってしまった場合、その場合の生はどうなる? 他者の記憶だけがその人の生となるのか。生きたということが記憶でしかないというならば。

そういえば福満しげゆきが記憶というか、視点について、面白いことを描いていたなあ。いま時間がないので読み返せないが明日にでも。
それはたしか主観と客観についてだったように思う。記憶が本当に自分の目に見えているもの、その視点で構成されているならば、それは主観でないとおかしいが、記憶には何故かしらそこに自分が客観的に存在している映像というのもある。それはどうしてなのか。本来見えていない、見ているはずのないものが記憶に存在しているというのは。その脳のメカニズムは一体どういうことなのか。

ただ単にそのタイトルからの全く関係のない連想だが、ドゥルーズによるベルクソンの「記憶と生」にもう一度挑戦してみたいと思う今日この頃。以前図書館で借りて読んで、というかぱらぱらとめくってみたものの、全然読み通すことなく返してしまった。結局、買って読まなければダメなのか。。

21:25

毎日基本的に通勤中は車の中で音楽を聴いているのだが、行きと帰りとで合わせればたいていのアルバムなら一枚聴き通せてしまう。でも朝は気分が滅入っているせいか、僕は昔から朝のニュースとかも見れないタチの人間なので、音楽も聴くモードになってくれない。というわけで結局帰りの片道しかろくに聴いていないのが現状。昨日はバッファロードーターのシャイキック。今日は行きにステレオラブのエンペラートマトケチャップ。帰りにザバンドのベストを流していた。ただそれだけ。感想とかはない。

19:59

もうちょいで帰れる。。

今日会社で朝礼があったのだが、そこで動画を見せられた。その動画というのが、僕が最近ネットでわりとよく見ている、TEDという、その道の色んなスペシャリストみたいな人達が出てきて演壇上でスピーチする動画配信サイトのやつだったのでびっくりした。今日見たやつは僕は知らない動画だったけど、15歳で癌検査の方法を革新した少年が自らのサクセスについて語っていて、それを見た後社員に感想を求めるような雰囲気になり、やばい、当てられたらどうしよう、正直話の内容に感心はするがべつにどうでもよいとしか思えない、えらいイケメンな少年だなあ、くらいしか感想というものもない…とか思って目立たぬよう顔を伏せていた。まあ当たられはしなかったのだが。で、その動画の少年の話と絡めて何かもっともらしいことをその室長は語っていた。とにかく僕は自信満々な人間って嫌いだ。本当にくだらない。

14:13

もはや日記すらつけなくなった……。

仕事以外では殆ど寝てばかりいて、その他にはとりたてて書くようなこともなくもないような、でもやっぱりないような。とにかく日々無為に過ごしているというわけだ。

焦燥感ばかやがいや増していく。

今週からカフカの審判を読んでいる。ヨーゼフKを襲う、理不尽な、不条理極まりない、わけもわからないままただ巻き込まれ翻弄されるしかない、ほとんど運命のようにあらかじめ仕組まれ決定されているかのような、自由意志などどこにもないと思わされる、それらへ抗うことすら実はシナリオの一部だと言わんばかりの一方的な状況が他人事とは思えない。

18:12

7巻の印象があまりないので、もう一度読み直す必要があると思うのだけど、確かメインは修学旅行のエピソードで、海老名さんが戸部とかいう奴に告られそうになるのを阻止する話だったように記憶しているが、告白されることで、それに対する返答がどういうものであれ、告白の結果がどうであれ、どちらにせよ今の彼ら(それは単に海老名、戸部だけではなく彼らの属する葉山グループ)の関係性が壊れてしまう、微妙なバランスの上に成り立っているその関係性の均衡が失われてしまうことを意味する。そこで奉仕部に相談が持ち込まれ、結果的には八幡が文化祭の時と同様、ヒールというのか、憎まれ役というのか、自らが嫌われ者になることで事態は一応の解決をみる。しかしその八幡の自己犠牲を良しとするかのような問題への解決方法に雪乃は難色を示す、というか、ハッキリ嫌悪を表し、八幡と雪乃、そして由比ヶ浜の関係性は一気に悪くなる。という流れの後の8巻で、奉仕部メンバーの関係性が、そのように非常にギクシャクとした重たいものになってしまっているところからのスタート。
きっと僕の理解力が足りないだけなのだと思うのだが、分からないのが、文化祭のときの八幡のやり方に(それは僕には修学旅行のときと大差ないように思える)、雪乃はそこまで否定的だっただろうか?ここまで書いてAmazonのレビューを読んで得心。なるほど、恋愛感情がそこにあるかから、ということなのか。だから修学旅行ではああなってしまったと。うーむ。やはり僕は内面とか心理を読み解く能力が著しく欠如しているのだろうなあ。基本、映画でも小説でもそんなものなくていいと思って受容しているからなあ。