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昨日買ったトルネで早速録画した番組を確認。おお、ちゃんととれているではないか。しかもふつうに画質も良い。で、森崎東のドキュメンタリーを見たのであるが、内容は認知症を題材にした映画を撮っている監督その人が認知症になりつつあるというもので、見ながら、つまり映画とは記憶のようなものではないか、と思った。記憶は情報であり、その情報をばらばらに解体し再構成したものが映画であり、もっと言えばそれが「生」というものなのかもしれない。……いや、こういう何かわかった風な感じの書き方はつまらない。実際僕は映画についても他のことも一切何もわかっていやしないのだし。

番組の中で引用されていた森崎東の言葉、人の生はその人自身の記憶とその人の記憶を持つ他者の記憶との総和である、というようなこと。しかし認知症などによって殆ど全ての記憶を失ってしまった場合、その場合の生はどうなる? 他者の記憶だけがその人の生となるのか。生きたということが記憶でしかないというならば。

そういえば福満しげゆきが記憶というか、視点について、面白いことを描いていたなあ。いま時間がないので読み返せないが明日にでも。
それはたしか主観と客観についてだったように思う。記憶が本当に自分の目に見えているもの、その視点で構成されているならば、それは主観でないとおかしいが、記憶には何故かしらそこに自分が客観的に存在している映像というのもある。それはどうしてなのか。本来見えていない、見ているはずのないものが記憶に存在しているというのは。その脳のメカニズムは一体どういうことなのか。

ただ単にそのタイトルからの全く関係のない連想だが、ドゥルーズによるベルクソンの「記憶と生」にもう一度挑戦してみたいと思う今日この頃。以前図書館で借りて読んで、というかぱらぱらとめくってみたものの、全然読み通すことなく返してしまった。結局、買って読まなければダメなのか。。