2013-10-01

分福茶釜/細野晴臣


新しいアルバムを録音しながら、自分たちが失ってたものを感じてた。音楽をつくる上で失った手段を。これから、それをまた取り戻そうっていう時期なんだよ。
それは何かというと、その場の空気と音をまるごとひとつのマイクで録るっていう、その豊かさを取り戻すことなんだ。豊かさが今は失われている。全部空気を削ぎ落として「音」だけにしちゃって、音を鳴らしているのは空気だっていうことを忘れてしまった。
一九四〇年代頃の音楽の良さは、ダイナミック・レンジの狭さとかセピア色とかそういうことじゃなくて、空気をまるごと一本のマイクで録音したっていうことなんだよ。空気を切り取るということは、宇宙の断片を切り取ることだから。


音楽におけるコンセプトなんていうものは、これはもう後付けだから。単なる言い訳。屁理屈。とにかく音楽の神髄はその場で楽しいことだ。リラックスしてやる、と。そういうときに「考え」ってのは不要なんだ。


作曲とか、自分のなかの世界をつくっていくときはひとりにならないとダメでしょ。レオナルド・ダヴィンチも言ってる。「孤独に堪えられない人間はモノはつくれない」


生活にけじめないよ。全然ない。お風呂は毎日入るけどね。でも体は洗わない。
なるべく洗わない方がいいんだ。髪の毛を洗ったときと洗ってないときって髪の感触の違いが手でわかるでしょ。で、洗ってないときの方が髪の調子がいいのがわかるんだよ。ちょうどいい感じだな、って。

皮膚なんかもそうなの。もちろんときどきはごしごしやるけどね。でも背中だけは人にやってもらいたいんだ。
そういう歌を書こうと思ってるんだけどね。「背中がかゆい」って。

ぼくのお手本は動物なんだよ。だから理想的な排便は、紙もウォシュレットも使わないこと。拭く必要があるっていうことは便の状態がよくないってことだよ。

尿には自分の身体の情報が入ってるんだってさ。飲尿っていうのは、その情報をもう一度体内にフィードバックするということらしいんだ。


本当のことは小さな声でひそひそ語られる。


ザ・フーピート・タウンゼンドがドキュメンタリー番組に出ていて、自分たちにとっては、いかに大きな音を出すかがテーマで、人に伝えたいからこそ大きな音を出しているって言ってたんだけど、これが元凶。これがいけない。大きな音が人に伝わるとは限らない。ぼくの経験では小さな音の方が、かえってみんな耳をそばだてるから。そこら辺からぼくの音楽のアプローチが変わってきた。


ブリトニー・スピアーズとかをクルマでフルボリュームで聴く。音のつくり方、とくに低域の処理に感心しちゃうんだ。フルボリュームでも音が割れないのがすごいし、うるさくない。
大ヒット曲なんだけれども静かなの。音数が少なくて、構造がしっかりしていて、音楽的にしっかりしてる。「静か」っていうのは、音楽として聴こえるっていうことだよ、音の塊じゃなくてね。いい映画を観ているみたいなもんだよ。いい映画には画面の大きさは関係ないからね。


これは惜しい、と思うものこそ贈り物にふさわしい。


悩みってなかなか人に言えないでしょ。言えないんだよね、恥ずかしくて。で、言わないでいるとそれがどんどん膨らんでいく。でも何かのきっかけでぽろっと言っちゃうと、それだけで解決しちゃうっていうことがある。そういうことがぼくにはあった。
解決した気になるんじゃなくて、解決しちゃう。だから最近では自分がそこにいるだけでいいいんだっていう風に思う。その場に参加するだけでいい。人の心の内はわからないし、ましてや治し方なんてこともわからない。余計なことはできないけれど、そこにいることには意味があるんだろうって。


実在の剣豪に興味がある。たとえば、影流の創始者で謎の人物がいるの。ちょっと待ってね、今パソコンの「剣豪」フォルダを見るから…あった。「愛州移香斎。一四五二年生まれ、一五三八年没、影流の創始者で謎の剣豪、日本人でないと言われる。室町時代末期、業病に冒されひとり島に住む、柳生一族の祖と交わりその神業が伝えられた」って。


死は大きなひとつの快感でもあると思う。生命にとって死は自然現象として、予め組み込まれているしね。だからか、動物は死の直前に脳内ドーパミンが溢れるっていうんだよ。だとすると死は幻覚と妄想と快感の世界なのかもしれない。
みっともなくてもいいじゃない。一休さんが死んだときに遺言を書いた。死んだ後に開けるようにって弟子たちに託した。ものすごいいいことが書いてあると思って開けてみたら、「死にたくない」って書いてあったって。それもひとつの教えだから。


モノをつくるっていうとみんな「自分的」なものばかりつくるでしょ。ぼく自信もそうだったから、それはよくわかる。でも、自分が編み出したと思ったリズムも、実は昔からあったもので、そのことがわかったときに、モノづくりっていうのは何かが自分を通して過去から未来に通っていくだけっていう風に感じた。つまり、自分がどこにいるかっていうことを知ることは、人間にとって大事なことなんだよ。自分が未来に何を残すかなんていうことよりもね。


結局のところ一番の衝動は楽しさなんだよ。自分が楽しくやるためにそうやってる。「ノッちゃうなあ!」って感じ。そこに自分がいる。