2013-09-03

単なる昔話なのだが、中学生の頃、クラスに最低でも一人は確実にいるタイプの、わりと地味な、ほとんど誰とも没交渉な生徒がいた。その高橋という名の女子生徒は、僕の二つ斜め前の座席で、彼女の、肩までくらいの髪を一つに束ねた、そのうしろ姿が、まずは思い出される。
次に、高橋の容姿だが、これがよく思い出せない。というのも、彼女は一年中マスクを装着していたからだ。春先の、花粉が乱舞する時期や、インフルエンザなどが流行する冬場にマスクをつけてる生徒はいた。だが、一年中マスクをつけている生徒というのは、学校中をさがしても高橋くらいのものだった。もしかしたら高橋は一年中風邪をひいていたのかもしれない。だから、その容姿を鮮明に思い出すことはできない。彼女の顔のパーツの中で、唯一露出されていた目だけを、ボンヤリとではあるが、思い出せる程度だ。高橋の目は、割合大きく、それでいて、いつも眠たそうな、開いているんだかいないんだか、よく分からない感じの目をしていた。
高橋はたいていいつも一人だった。給食の時間も、周りは皆仲の良い者同士席を寄せ合って食べるのだけど、高橋は誰とも席をくっつけることなく、黙々と箸やスプーンを口に運んでいた、ということは、そのときばかりは、彼女も常時装着していたマスクを外していたということだろう。流石に、ものを食べるときだけマスクを下にずらし、素早く揚げパンやら冷凍みかんやらを口に放り込む、というやり方では、食べ辛そうではある。
僕の座っている場所からは、高橋の顔をはっきりと見ることはできなくて、斜め後から、その横顔だけをかろうじて確認することができるのみだった。給食時間が終了すると、そのままなし崩し的に45分間の休憩時間に突入する。高橋は、机の上に腕を組み、その上へ頭を垂れるようにして、じっとしていることが多かった。耳にはイヤフォンをはめていた気がする、たぶん何らかの音楽を聴いていたのだろうと思う。
もう、どういう経緯でそういうことなったのかは忘れてしまったが、あるとき、僕は高橋と生徒指導室という場所を掃除していた。部屋には二人だけ。もちろん会話などあるはずもなく、ただ黙々と床を掃いたり机を拭いたりしていた。やがて高橋はおもむろに、「ゴミ捨てて来ます」とかなんとか言って、ゴミ箱を持って、外へ続くドアの方から返事も待たず出て行ってしまった。というのは、現在の学校はどうだか知らないけれど、その頃の、というか、僕たちの学校では、ゴミは焼却炉へ直接捨てに行くことになっていて、焼却炉は校舎の外にあった。で、例えば教室からのゴミを捨てに行く場合、わざわざ昇降口で上履きから靴に履き替えて外に出なければならなかったのだが、真面目な奴ならばともかく、大半の生徒はそんな面倒なことはやってられないとみえ、ほとんどが上履きのままでゴミを焼却炉へと捨てに行っていた。僕たちが掃除をしていた生徒指導室は一階の、職員室の向かいにあって、その部屋には直接外に出られるドアが廊下側とは反対についていたから、そのとき高橋はそこから外に出て行ったのだった。ドアを開けたところに外履き用のスリッパがあり、おそらくそれを履いて彼女はゴミを捨てに行ったのだろう。室内の、ドアの傍に、高橋の上履きがきちんと揃えて脱ぎおかれていた。上履きの先端のゴムの色は学年毎に色分けがされており、僕たちの学年は赤だった。高橋の上履きも当然ながら赤で、ただ、そのサイズは驚くほど小さかった。いや、女子にしては標準であるのかもしれないが、普段女子の足のサイズなど気にかけたこともなかったから、そのときの僕にはやはりその小ささは衝撃と言ってもよかった。僕は高橋の上履きの前にしゃがみ込んで、その上履きの踵の、なぜかそこだけぴょこんと飛び出している部分を指でつまんで、持ち上げてみた。カラーゴムの下にマジックで書かれた「高橋」という字を見て、意外と下手だなあ、そんな感想を持った。それから高橋の上履きの匂いを嗅いだ。上履きを顔に寄せて、結構本格的に。上履きの中は決して美しいとは言い難く、特に踵と爪先の辺りが黒く薄汚れていて、わりと使用感を感じるものだったため、正直、これはかなり危険かもしれない、しかもいま夏場だし……という懸念はあるにはあった。しかし仮にこちら側にダメージを与えるものであったとしても、それはそれで構わないような気もしていた。いや、そういうこと以前に、女子の上履きの匂いなんて嗅いでしまって良いのだろうか? という葛藤も当然あったと思う。結果的には、高橋の上履きは、その見かけに反して、いい感じの匂いだった。ある程度身構えていたので、むしろ、あれっ? と拍子抜けして、一度嗅いだ直後に、二度三度、嗅ぎ直さなけらばならなかった。それがどんな匂いかを説明するのは難しいが、あえて言うなら、紅茶のような匂いだった。……嘘だろう? というのがそのときにまず浮かんだ感想だった。こんないい感じの匂いの上履きが本当にあるのか? それとも女子の上履きはみんなこんな匂いなのか。僕はショックを受けて、高橋が戻って来るのも待たず、生徒指導室をあとにした。
それから高橋と二人で掃除をするような機会もなく、しかし、どうしてもまたあの匂いを嗅ぎたいと思った僕は、朝早くに学校へ行くようになった。高橋が、というか、他の生徒たちが登校して来る前に、昇降口の、靴箱の中に置かれている高橋の上履きの匂いを嗅ぐことが、僕の毎朝の日課になったのだ。