俺の妹に彼氏ができるわけがない

ある朝、俺が食卓でコーヒーを飲みながら新聞の求人欄に目を通していると、キッチンで朝食の支度をしていた母がこちらに背を向けたままポツリと呟いた。
「そうそう、どうやらあかねに彼氏がデキたらしいのよ」
カレシ!?
俺は口をつけようと持ち上げていたコーヒーカップを努めてゆっくりと下ろし、再びテーブルに置くと、母に事実の真否を追求すべく慎重に口を開いた。
「……それは確かなことなのかな?『らしい』ということはまだハッキリとは分からいないってことじゃないの?」
「いやいや、写メも見せてもらったし。なかなかカワイイ子だったわよ。今度ウチに連れて来るって言ってたからケーキでも焼いてあげないとね~」
「…………」
母は料理の手を止め、俺の方に向き直るとニコニコ顔でさらに言葉を継ぎ足した。
「ちなみにカレはあかねとはべつの高校の生徒さんみたいなの。あの娘も部活とかで忙しいでしょ?だからいつも会えるってわけじゃないみたいで、そこはちょっとかわいそうよね……。あ、でもこの前の日曜日は二人で映画を観に行ってたんだって!うらやましいよね~」
「一気にいろんな情報をぶっ込んでくるなよ!混乱するだろ!まだ彼氏かどうか決まったわけじゃないんだし……。実際には彼氏なんかではなく、単に仲の良い男友達程度の存在に過ぎないのかもしれないし……」
「そんなに険しい顔しなくても……」
「コーヒーが苦かったんだよ!」
「そう?いつもどおりスプーン二杯しかいれてないけど」
「……それだけじゃないよ。今日も相変わらずまともな求人が出ていなかったりしたもんで、それですっかり世を憂う気分になっていたんだよ。必然、険しい表情にもなるよ……」
「それは悪かったわ。ごめんね。久しぶりの明るいニュースだったからお母さん嬉しくなっちゃって、つい。……朝ご飯すぐ用意するね!」
そう言って母は再びキッチンに向かう。
俺は若干ぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。やはり、そのコーヒーはいつもよりも苦く感じられた。


朝食を終え、リビングに向かう。
妹はまだ起きて来ていないみたいだ。
そういえばもう春休みに突入しているのだったか。
何年か前までは長期休暇の度にどこかへ連れて行けとよくせがまれたものだが。
ここ最近はそういうこともすっかりなくなってしまった。
かなり前に一緒にTSUTAYAに行ったくらいだ。
そこで俺は妹に少女マンガ原作のアニメをやたらしつこく奨められた。
「コレ超感動するよ!絶対見た方がいいよ!旧作だし全巻一気に借りるべきだよマジで!」などと鼻息荒く。
あのときの妹は珍しくハイテンションだった。
よほど気に入っている作品で興が乗っていたのだろう。
そのアニメの主人公である少女の手を相手役の男がそっと自分のコートのポケットに入れ、二人手を繋いで歩くとかいういかにもなシーンがあるらしく、「ああいうの憧れるんだよね~。ねえ?ちょっとやってみてよ」と突然手を差し出されたが当然拒否した。すると妹は自らの手を無断で人様の上着のポケットに突っ込んできたかと思うと、「ほら、早く!」と俺にも同じ動作を要求してきた。俺は半ばやけくそ気味に妹の手が待つポケットに自分の手をすべり込ませると、その布の内側の狭い空間で互いの指を絡め合った。TSUTAYAのアニメのDVDが並ぶ棚の前で。
まあ、結局そのDVD自体はレンタルしなかったのだが……。
ぼんやり回想に耽っていると、リビングのドアがガチャリと開き、入って来たのは妹だった。
「おはよ」
言いながら妹はテーブルの上に携帯電話やら財布やらポーチやらをごちゃっと置き、鏡の前に腰掛けてヘアーセットに取り掛かった。
すでに着替えはすませており、いつものモコモコした部屋着ではなく、学校の制服に身を包んでいる。
「今日部活?」
「そうだよ」
「春休みなのに大変だね」
「三年生が卒業して、今度はわたしたちが部を引っ張ってかなきゃいけないからね」
「そうかぁ。じゃあ遊ぶヒマもないじゃん」
「まあね。でも好きでやってることだから」
会話をしながらも、妹は器用にドライヤーで前髪をまっすぐに伸ばしていく。
俺と同じでくせっ毛なのだ。
だからなのか何なのか、中学生のころから髪型はずっとショートカットのまんまだ。
「まあ、無理せずがんばってよ」
自分のことを棚に上げて無責任な激励の言葉を放つと、「お前もな」と当然の返しが飛んできた。
「……わたしも去年は休部したりだとかでみんなに迷惑かけちゃったけど、今年はホントがんばんなきゃって思ってるんだ。だからまあ…そっちもがんばんなよ。……無理せずにさ」
そのやり取りの瞬間だけ、鏡ごしに目が合った。心なしか顔が赤いような気がした。
鏡の中の妹は左右のパーツが逆に映っているというだけなのに、なぜだかそこにいるのは見慣れない少女のようにも感じられた。
やがて身支度を整えた妹は「もうちょい時間あるから10分だけ寝る」そう言って、カーペットの上にごろんと転がった。そのまま寝ると首が痛くなりそうだったので無言で枕を投げてやると、「グッジョブ」とよく分からない礼を言われた。
妹はすぐに寝息をたて始めた。
その寝顔をそっと窺う。
三歳のとき原付に撥ねられ最悪傷が残るかもしれないと医者に言われたその顔も、その後すっかり綺麗になった。
昔から変わらない、アホみたいに口を開いて眠るその寝顔は、俺のよく知っている妹のものだった。
テーブルの上に置かれた妹の財布を手に取る。
中を確認すると札入れに札はなく、入っているのはファミレスのドリンクサービス券のみ、現金は小銭入れにしまわれた十円と一円硬貨数枚だけで、全財産百円にも満たない有様だった。
……これはあんまりだ。
これじゃ彼氏とデートもできないだろう。
俺は自分の財布を取り出し、そこからなけなしの五千円札を抜き取ると、それを妹の財布にこっそりしのばせた。そして妹が目を覚ます前に立ち上がり、外に飛び出した。仕事を見つけるのだ。