ラースと、その彼女

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上のスチールはビアンカがこの映画に初登場したシーン。

このあとカットが変わって、カメラは向かいに座っている兄夫婦を映し出すのだが、(ラースから「ネットで知り合った彼女」とリアルドールを紹介された)彼らのリアクションを想像するのはさほど難しいことではないだろう。


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まあ、そうなるわな・・・。

兄貴のポカーン顔が本当に笑える。

ただこの映画、単なるコメディではない。

「他者とのコミュニケーション」という主題に真っ向から取り組んだ、胸の熱くなる作品になっている。


主人公ラースは、ネット通販で購入したリアルドールを生身の恋人だと信じ込んでいる。
彼は他人との接触を極端に避けて生きているひきこもりがちの青年だ。
リアルでそんな青年が人形と対話をしている様を見かけたら、たぶんドン引きすると思うが。
そのあたりこの映画は軽妙に描いていて巧い。

彼は人形と対話をすることによってもう一人の自分と対話をしている。当然そこには他者は存在しない。
ビアンカはブラジル人とデンマーク人のハーフで、信仰心の篤い看護師免許を持つ宣教師で、現在は車椅子での生活を余儀なくされている、という設定・・・。
それは彼の妄想=意識の産物であり、彼女との対話もすべてはコントロールされた理解可能なもの。

それとは反対に、自分の意識の外にいる他者は、基本的に理解不能な怖ろしい存在でしかない。
だからより一層、頑なにラースは自分の妄想を強化していく。
普通ならこのような人物は「イカレた奴」というレッテルを貼られ、孤立するのが常であろう。
しかしこの映画では、そんな青年を取り巻く周囲の人々が、彼の妄想を自分たちも共有しようと努力する。
努力はするのだが、やはり完全には共有できない。
というのも、ラースのつくりだしたビアンカが存在するのと同様に、周囲の人々がつくりだしたビアンカもまた存在するからだ。
ラースの思うビアンカと周囲の人々が思うビアンカによって、ビアンカというフィクションは形作られる。
双方のフィクションは必ずしも一致せず、そこには齟齬が生じる。
じゃあダメじゃん。いや、その齟齬こそが(他者との)対話の契機となるのである。

ラースが自分の思い通りにならないことに腹を立て、ビアンカと口論(といってもビアンカはしゃべれないのでラースが一方的に怒鳴っているだけ)するシーンは示唆的だ。
彼はそれによって、自分の意識の外(コントロールできない他者の領域)に一歩踏み出したのである。
そして実際に、このあとラースは徐々に変化を見せ始める。
自分のつくりだした妄想の外へ、虚構の外へと出ていこうともがき始めるラース。
以前なら絶対に拒んでいたであろう誘いを受け入れ、同僚の女の子とボウリングに出かけたりする。
このボウリング場のシーンは、ラースが不器用に、でも必死に他者と関係を取り結ぼうとする映画中の白眉。
ここでの、ラースが放った、ボウリングの玉がほとんど真横に飛んでいくありえないガーターは一見の価値大あり。


ところでこの映画の撮影後、助演女優とも言えるビアンカは一体どうなったんだろう?
まさか捨てられたりしていないよな?