ポー川のひかり

全てが唐突であり、全てが自然である。
そこでは何もかもが起きる。
ポー川のひかり」はこの世界そのものを、川辺という極めて限定された空間を切り取ることだけで表徴してみせているのだと思う。
タイトルにもなっているポー川を捉えた映像、この水の描写の官能性は一体何なのだ?
どうやったらこんなショットが撮れるのかさっぱりわからない。
この川の水の映像だけを延々ループさせて見ていたと思ってしまうほどだ。
しかしこのすばらしい水の映像はあくまで劇映画の風景描写として用いられているわけで、これは実はとんでもなく贅沢なことなのではないか。
水以外にも、この映画の風景描写はことごとくすばらしい。
圧倒的な密度。
この映画のショットの一つ一つが持つ豊かさは、この世界に対する絶対的な肯定に裏打ちされている。
主人公の男は川辺の廃屋に住み始める。
彼には彼の事情、内面に抱えたあれやこれやがあるのだろう。
しかし世界はそんな彼の思惑など一切お構いなしに進行する。
彼が住む川辺には蝶もバッタも蝸牛もいるし、川の中には生態系をめちゃくちゃにする化け物のように巨大なナマズがうじゃうじゃ巣くう。
風が樹の葉を揺らすし、昼は太陽が川面を光らせ、夜は信じられないほどバカデカイ月が妖しく水に反射する。
川の上を行き交う船。川岸を唐突にバイクが砂埃を巻き上げながら駆け上がったかと思えば、土手の上をふとももをチラつかせてバイクに乗ったピザ屋の女が疾走、水着の少女がバク転…
全てが唐突に、自然に起こり、カメラはそれら全てを捉えている。
この世界の持つ多層性を。
全編を通してほぼ川辺の風景だけで成り立っているこの映画がどうしようもなく豊かなのは、世界そのものの多層性、厚みを見事に捉えているからだと思われる。
だからこの映画の主人公はたまたまあの大学教授の男というだけであって、でもこの世界には彼以外の人間、動物や植物や運動が厳然と存在しているのだ。